村上 陽一郎 :安全と安心の科学 集英社新書 (0278)

安全と安心の科学 (集英社新書)

安全と安心の科学 (集英社新書)



●レビュー(出版社 / 著者からの内容紹介)

「安全」は、達成された瞬間から崩壊が始まる。
社会が複雑化するにつれ、われわれの安全を脅かすものは、安全の名のもとに人間が作り上げた科学的人工物である場合が多くなってきている。矛盾した状況を解決するためのシステム作りを提言する。


●目 次
まえがき/序論 「安全学」の試み/第1章 交通と安全−事故の「責任追及」と「原因究明」/第2章 医療と安全−インシデント情報の開示と事故情報/第3章 原子力と安全−過ちに学ぶ「安全文化」の確立/第4章 安全の設計−リスクの認知とリスク・マネジメント/第5章 安全の戦略−ヒューマン・エラーに対する安全戦略/結び/あとがき/参考文献一覧


●読書のポイント

福知山線脱線事故の発生を契機に、「安全」「安心」に対する認識が一段と高まっています。メルマガ「ドミカン11号http://blog.livedoor.jp/domi_es/archives/20644907.html」でも、「安全」と「安心」に関する考察を行っています。環境問題とは切っても切れない関係にあるのが、安全・安心の問題とも言えます。

この本は、自分身近なところで起きる交通事故や医療事故、あるいは社会問題として大きく取り上げられる原子力に関する安全など、さまざまな角度から「安全」や「安心」について解説されています。

何が現代社会の安全を脅かし、安心を損ねているのか。安全とは何か。安全と安心の違いは何か。等々、わかりやすい示唆に富んだヒントが多く含まれています。

「安全」や「安心」ということを明確に理解することは、なかなか難しいものです。本書を読むと「目からウロコ」が落ちるような指摘がいくつも出てきます。例えば、こんな具合です。

新幹線の脱線も、メディアでは「安全神話の崩壊」という姿勢で扱うことが多かったのですが、それだけの地震で死者はおろか負傷者も出さず、転覆もせず、脱線だけで済んだのは、奇跡ではなく、施された安全対策のお陰であったこともまた、報道されてしかるべきであったと思います。

天災が天災である間は、私たちは何が起こっても諦めるほかありませんでした。いや、諦めなければならない災厄のことを天災と呼ぶのでしょう。そうだとすれば、天災はリスクではない。・・・諦めずに、起こったときの被害を減らす努力をしようではないか。この立場に立ったときに、災厄はリスクになりました。

人間だけは、同種の間で殺戮を繰り返しながら、着実に人口を増やしていますし、その理由の一つは生殖形態の特異性にあると考えてよいのではないでしょうか。話は逸れますが、抑制の利かない性行為を「動物的」などと表現することがありますが、それはどうもおかしい。動物には迷惑な言い方で、性行為において最も抑制の利かないのは人間ではないか、とさえ思ってしまいます。

好ましい想像ではありませんが、イラクに派遣された自衛隊のなかに仮に一人の死者が出たときに社会が呈する状況を推測してみるとき、あるいは原子力発電所のなかで仮に一人の死者が出たときの同じ事態を推測してみるとき、年間八千人、つめり阪神・淡路大震災での死者を上回り、毎日確実に20人以上の死者を生み続けている交通の現場に対する社会の関心の低さは異常でもあります。

現在自殺者が急増していることが問題になっています。壮年の男性がいわゆる「リストラ」に遭ったとき、将来の経済的不安から自ら死を選ぶ、というような事態がしばしば新聞などでも報じられます。でも私は、これは全くおかしな説明だと思います。・・・逆に敗戦前後には、人々は将来への極度の不安、今とは比べものにならないほどの、「食べられるか」という不安に駆られていました。しかし、その頃の人々はその不安のゆえに自殺などしませんでした。・・・現代社会そのものが、そうして職を失った人々を絶望させるような性格の社会であり、敗戦前後の社会はそのような性格のものではなかった・・・

危険が除かれ安全になったからと言って、必ずしも安心は得られない、ということにもなります。・・・「安全−危険」という枠組みのなかで、しなければならないことはまだ沢山あります。けれども、それを達成するだけでは、現代の不安を解消することはできないでしょう。・・・今人々の心の中心を捉えかけているのは、もはや「不足」ではなくて、「不安」なのではないでしょうか。